臨済宗建長寺派 萬法山 帰一寺

帰一寺 小話

このページでは、当山住職による小話をお届けします。
どうぞご笑覧ください。

平成二十七年十月

第六七号

鎮座扶桑不二山
眼前溥博駿河灣
尋師訪道衝天志
一擲乾坤開険関

扶桑に鎮座す 不二の山
眼前に溥博す 駿河湾
師を尋ね道を訪ぬ 衝天の志
乾坤に一擲し 険関を開く

今月二十四日に鴨川市と松崎町の交流を深めるキックオフイベントが帰一寺で開催されました。トークライブの中で亀田秀次先生が仰っていた「Do and Think」の言葉が胸に刺さりました。笑ってから、何が可笑しかったのか考えようよと。とにかく前に一歩踏み出そうぜ!と背中を押された気がしました。修行道場の門を初めてくぐった時の緊張感。その一歩を踏み出せれば、九割ほど成ったようなものです。何時か来るであろう成功や幸せは、最初の一歩がなくてはやって来ないものです。

平成二十七年九月

第六六号

月明天浄十方眞
颯颯涼風隔俗塵
燈籠連連参道燦
無量恩響共相親

月明るく天浄し 十方眞なり
颯颯たる涼風 俗塵隔す
燈籠連連 参道燦たり
無量の恩響 共に相親しむ

お彼岸に永代供養墓である「弥勒堂」に埋葬されている方々の合同供養を厳修致しました。その夜には参道に地域の子供達がご先祖様の為に書いた絵を使った灯籠を飾り野外コンサートを開き、ご先祖様達と心地よい音楽を聴けたことと思います。一つの行事の裏に多くの人の支えがあり、その根本にはそれぞれの地元への愛、ご先祖様への畏敬の念が込められています。人と人との繋がり、縁と縁との繋がりを感じられることで私たちは安心を感じられるものではないでしょうか。

平成二十七年八月

第六五号

旱雲朱夏日輪紅
流汗求涼尚未終
談笑風生忘彼此
萬霊同會法筵中

旱雲朱夏 日輪紅なり
流汗涼を求め 尚未だ終わらず
談笑風を生じ 彼此を忘れ
萬霊同じう会す 法筵の中

今年は日照りが続き、庭木が枯れてしまうほどでした。その中で毎年の合同棚経には本堂に多くの檀家さんが集まり、一緒に法要を営みました。夜には夏祭りで久しぶりに会う遠方の知人達が一同に会して盆踊りを踊り、お盆で帰って来ているご先祖様達と楽しい時間を過ごせたことでしょう。

今を生きている私達だけでなくご先祖様達を含めた多くの法縁を生かすも殺すも自分次第。折角の味方に見限られることの無いように日頃から感謝の心を忘れないでいたいものです。

平成二十七年七月

第六四号

炎威烈烈不鳴蝉
七月山頭萬法鮮
大覚真前心地浄
遺風凛凛尚今傳

炎威烈烈 蝉も鳴かず
七月山頭 萬法鮮やかなり
大覚真前 心地浄し
遺風烈烈 尚今に伝う

吉田のお姉様方とのウォーキング中に青々と茂る稻を見ながら「昼間は暑すぎてオモダチだちだか稻だか欲を離れるよ」と不意に仰る方がいました。炎天下の中、草引きをしてると雑草だろうが稻だろうがどうでもよくなってくるということと解釈しました。一生懸命ひたすら一心に草引きしてると損得勘定も見栄も外聞も関係なくなってしまうということでしょうか。高校球児、本山の開山忌の出頭、一心に向き合っている姿に感動するのは、ただひたすらな心なのかもしれませんね。

平成二十七年六月

第六三号

清涼筑紫彩光新
宰府菖蒲處處眞
華語喧喧猶未盡
古今来往遍塵塵

清涼の筑紫 彩光新なり
宰府の菖蒲 處處眞なり
華語喧喧 猶未だ盡きず
古今来往 塵塵に遍し

先日、九州に行って参りました。梅雨の合間の晴れの日に大宰府天満宮に行くことができました。ごった返す観光客のほとんどが中華系の方々でした。かつて鎌倉の建長寺、東山の泉涌寺も中国から渡って来た渡来僧が多数いて、さながら外国の様であったと聞きます。言語の違い、文化の差異はあれども、同じ人間です。真心を以てすれば通じないものはないと信じつつ、一山国師の残された偈頌に七転八倒しております。来年の国師七〇〇年遠忌、無事円成できますよう祈るばかりです。

平成二十七年五月

第六二号

五月陽光四海淸
薫風満地又周行
森羅萬象全如是
藤紫楓青無所爭

五月の陽光 四海清し
薫風地に満ち 又た周行す
森羅万象 全て是の如し
藤は紫 楓は青し 争う所無し

初夏の爽やかな気候に心が洗われるようです。裏庭の藤も楓もそれぞれが自然体で各々の命を全うしております。人間も身体、性格等それぞれの人生を生きております。隣の家の芝生を覗けば、嫉妬が生まれ、干渉すれば恨み、誤解も生じることでしょう。
うちの子供達の喧嘩はお互いの主張を譲らない時にいつも発生しているようです。自分が自分でありつつ、相手のことを尊重できるように諭しつつ、同時に自らを省みる今日この頃です。

平成二十七年四月

第六一号

山色濛濛隔世縁
無常風散落花辺
玉園貞佑小祥忌
追憶慈恩御影前

山色濛濛として 世縁を隔す
無常の風散じ 落花の辺
玉圓貞佑 小祥忌
慈恩を追憶す 御影の前

月日の経つのは早いもので、母の一周忌が先日ありました。雨の降る中、大勢の方の参列を賜りまして深謝申し上げます。母の記した兄弟それぞれの母子手帳に殴り書きで書かれた記録が残っています。共働きをしつつ、寺を護り、そして私たちを育ててくれた慈恩を忘れることなく、次世代に注いでいこうと思います。「私が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ人が
痛切に生きたいと思った一日である」今という時をひたむきに生きることが唯一の故人に対してできることなのかもしれません。

平成二十七年三月

第六十号

伊豆横道三十三観音本開扉供養

普門妙應遍塵刹
現補陀山海上來
三十三身観自在
豆州横道法光開

普門の妙應 塵刹に遍ねし
補陀山に現じ 海上より來たる
三十三身 観自在
豆州の横道 法光開く

今年は伊豆横道三十三観音札所の本開帳の年です。観音様は私達の願いに応じて姿を変え、救ってくださる仏様です。帰一寺所蔵の一山国師自画自賛像の賛には国師が補陀落山の潮音洞で見た観音様の事が書かれています。冒頭の一句が「普門妙應遍塵刹」です。願いに応じてあらわれてくださるわけですが、どのように願うかが肝要かと思います。御開帳した本尊様もそこに行かないことには見れません。縁無き衆生は度し難し。神頼みの前に何を為すべきか問われている気がします。

平成二十七年二月

第五九号

人形供養

清気香風何處帰
紅梅點點轉幽微
壽山福海非仙境
古寺荒庭現徳輝

清気香風 何れの処に帰す
紅梅点点 転た幽微なり
寿山福海 仙境に非ず
古寺の荒庭 徳輝を現わす

裏庭の奥の方の伐採をしてから月日が経ち、切った木々が朽ちつつあります。その丸太の片付けをしている時に絶滅したと思っていた縞竹を発見しました。その昔、近所の悪童達が戦利品として重宝したそうです。少年の頃を語るお爺さんの目には昔の勇姿が映っていることでしょう。

一方、人形供養で集まってくるお人形さんたちはいろんな方々の思い出に包まれてきたものです。そんな大事なお友達だからこそ、きちんとお別れのお手伝いさせて頂けたらと思います。

平成二十七年一月

第五八号

天地迎春光彩鮮
水仙花綻謝生縁
温和羊角廻元気
歩歩従容志泰然

天地迎春 光彩鮮やかなり
水仙花綻び 生縁を謝す
温和な羊角 元気を廻らし
歩歩従容として 志泰然なり

寒中見舞い申し上げます。
古代中国で羊は善の象徴であり、まためでたいしるしとされていたそうです。大がつくと「美」になり、さらに身につければ「躾」となります。また、神前での舞を意味する我の字とくっつくと「義」となります。傍らにつくものによって様々な意味に変化します。羊角とは角の丸い様を表すほかに、旋風を意味するそうです。和して同ぜず。温和でありつつ、ちゃんと芯を持って一年過ごして生きたいものです。

平成二十六年十二月

第五七号

木落草枯陽景斜
光輝白玉雪中花
去来生滅無常理
閑坐閑眠偶喫茶

木落ち草枯れ 陽景斜めなり
光輝く白玉 雪中花
去来生滅 無常の理
閑坐閑眠 偶に茶を喫す

今年の松崎は例年よりも山の賑わいが鮮やかでした。境内の周りの木々は落葉し、寒さが増しております。その一方で、地面には水仙が生い茂り、真っ白な花を咲かせております。私事ではありますが、実の母の逝去、息子の誕生、大きな悲しみと大きな喜びとが一度に訪れた一年でした。いつかは私も死ぬ時が来るでしょう。しかし、今は今できることを淡々とこなすしかできません。

最後になりましたが、喪中につき、年末年始の挨拶をご遠慮申し上げます。

平成二十六年十一月

第五六号

開山毎歳忌法語

大千世界遍乾坤
十字街頭人語喧
萬法如斯兮帰一
以心伝意道常存

大千世界 乾坤に遍ねし
十字街頭 人語喧し
萬法斯くの如く 一に帰す
心を以て意を伝う 道は常に存す

世界には多くの国があり、民族があり、大勢の人々が生活しています。文明や科学の進歩により今や、ボタン一つで地球の裏側と交信できる時代です。しかし、言葉や文化の違いによる誤解や摩擦が存在することも事実です。安易な考えに基づく差別やヘイトスピーチ等、多くの問題に不安を覚えます。心と心との繋がりを大切にし誠意を以て事に当たることが、国際関係のみならず、地域社会、家族間においても大事なことと思います。幽閉された国師のその後の生き様は今も輝いています。

平成二十六年十月

第五五号

萬里秋天千古松
白花紅染酔芙蓉
荘厳威徳伽藍在
同行衆生期亦逢

萬里秋天 千古の松
白花紅に染む 酔芙蓉
荘厳威徳 伽藍在り
同行の衆生 また逢うことを期す

今月二十名の方々と京都へ団体参拜の旅に行って参りました。爽快な秋空の下、五山、林下の各本山の荘厳な伽藍と優雅な庭園を拜観できましたことは、ありがたいことと思います。また思いがけないおもてなしやご案内を頂きました。そして何よりも同行した方々と普段以上により親しく触れ合うことができたことが今回の一番の法縁でした。由緒ある本尊様、立派な堂宇もありがたいことですが、何より大切なのはやはり私達人間なんだとしみじみ感じた旅でした。

平成二十六年九月

第五四号

幽香丹桂満山家
堂裏添紅彼岸花
慈相端厳居地蔵
大悲弘照映袈裟

幽香なる丹桂 山家に満つ
堂裏紅を添う 彼岸花
慈相端厳 地蔵居す
大悲弘照 袈裟に映ず

彼岸の折、今年完成したばかりの永代供養納骨堂「弥勒堂」にて初の供養を行いました。金木犀、彼岸花、お地蔵さんの前掛等々、秋の風物詩です。

弥勒堂を再建した場所にはもともと金木犀の木があり、裏庭の木と共に毎年芳香を放っておりました。金木犀は桂、丹桂の別名を持ち、「桂を折る」とは、中国において科挙に及第することを意味するそうです。「桂林の一枝、崑山の片玉」現状に満足せずに、常に先を見据えて努力していきたいものです。

平成二十六年八月

第五十三号

炎塵苦熱打心頭
青草池塘弗能収
牛吼驚山猶未罷
不風流処也風流

炎塵苦熱 心頭を打す
青草池塘 収めること能わず
牛吼え山を驚かし 未だ罷まず
風流ならざる処 也風流

強烈な日差し、大繁殖した布袋葵。そして静けさを一瞬にして打ち破る牛蛙の鳴き声。伊豆の名園とは如何なるものと耳を疑いたくなる風景です。入山当初、雑音にしか聞こえなかった牛蛙の声が、今年はなぜか穏やかに聞こえ、夏の訪れとして感じてしまう程になってしまいました。船原峠を下り土肥温泉のあたりから地元に戻ってきたなぁと思える昨今、この松崎の地に縁を頂いたことを感謝しております。人間到る所青山あり。母のお蔭で久々に家族の揃ったお盆でした。

平成二十六年六月

第五十二号

五月陽光照福田
薫風緑樹百花鮮
新生出世祖恩敬
慶賀家門謝善縁

五月の陽光 福田照らし
薫風緑樹 百花鮮やかなり
新生世に出で 祖恩敬う
家門を慶賀し 善縁を謝す

帰一寺の境内の木々は青々と生い茂り、まさに初夏の賑わいを見せております。毎年の風景でございます。しかしながら、枝についている葉は去年と同じものではありません。先代の葉が生み出した栄養のお蔭で一年経ち、今こうして生きているのです。気候の良い時も悪い時も続いてきたからこそ今があります。先般、五月三一日に次男の道敬が誕生いたしました。繋がる命を思うとき父母、祖父母、多くのご先祖様方に感謝せずにはいられません。尊いこの命、大切にしたいものです。

平成二十六年五月

第五十一号

一聲破寂不如帰
時節因縁説是非
坐臥経行懐不盡
唯希冥福向天祈

一聲寂を破る 不如帰
時節因縁 是非を説く
坐臥経行 懐い尽きず
唯冥福を希い天に向かって祈らん

母が他界して一ヵ月経とうとしております。長年にわたり親不孝を重ねて参りました私を許してくださいました。子供の頃から言うことを聞かず、生意気ばかり言っておりました。もはやその我儘を聞いてもらうこともできず、口喧嘩することもできません。高校より二〇年近く親元を離れておりました親不孝を今更ながらに反省しております。このような大たわけ者を見捨てることなく、生み育てて下さいまして、ありがとうございました。

平成二十六年三月

第五十号

東風吹散入門来
花有清香處處開
彼岸春光諸仏喜
檀徒倶会思徘徊

東風吹き散じ 門に入て来る
花清香り有て 処々に開く
彼岸の春光 諸仏喜び
檀徒倶に会して思い徘徊す

那賀川の花畑も花が一斉に咲き、桜の並木にも蕾が膨らみ始めております。帰一寺の参道にも抜いたはずのタンポポが花を咲かせていました。
法事に小さなお子さんやお孫さんが良く来るのですが、その多くの方が松崎の外に住んでおります。タンポポの綿毛が各地に飛散して花開き、またそのタンポポの綿毛が各地に飛んで行く。松崎から飛び立って行った優秀な人材が各地で活躍することを心からお祈りしています。

平成二十六年二月

第四十九号

連日苦寒霜満天
厳風吹散勢翩翩
能除邪気追災禍
勧請福神心泰然

連日の苦寒 霜天に満つ
厳風吹き散じ 勢い翩翩なり
邪気を能く除き 災禍を追う
福神を勧請し 心泰然なり

嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると、子供の頃より言われて参りました。地獄絵の中に鎮座する閻魔様は鬼の親分のといったところでしょうか。その閻魔様はお地蔵様が姿を変えた化身だそうです。
鬼は外、福は内。悪霊や災い等を無くし、福を得たいというのは人間誰もが望むところです。
鬼の顔をした仏と、仏の顔をした鬼と、どちらが本当なのでしょうか。鬼のように厳しい老師様の有難さが今頃になって、なんとなく分かったような気がします。

平成二十六年一月

第四十八号

松竹青青西豆禅
寒梅点点吐香鮮
祥風廻転如騅走
閃電之機不見鞭

松竹青青 西豆の禅
寒梅点点 香り吐いて鮮やかなり
祥風廻転すること騅の走るが如し
閃電の機 鞭を見ず

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。「鞭影を見てのち行くは則ち良馬に非ず、訓辞を待ちて志を発するは実は好僧に非ず」建長寺開山の大覚禅師の法語規則の中の冒頭の一文です。「良馬は鞭影を見て行く」という諺よりさらに厳しいお言葉です。音が鳴る前の影を見て走り出すだけでも優れているのに、それでもまだ遅い。まして、音が鳴った後でも走り出さない馬は一体何になるのでしょうか。

平成二十五年十二月

第四十七号

光陰如箭又迎春
凛凛寒風辣更辛
除夜鐘聲懐破竹
方知一覚発心新

光陰箭の如し 又春を迎える
凛凛たる寒風 辣更に辛なり
除夜の鐘声 破竹を懐う
方に一覚を知る 発心新なり

月日の過ぎるのは早いもので、今年も年の瀬を迎えようとしています。長いのか短いのか人生において大事な転機というものがございます。その転機は何時来るかわかりません。明日かもしれないし、今かもしれません。思い立ったが吉日。今できることは、今やるべきです。「様子を見ましょう」という言葉でごまかさず、現実と向き合い為すべきことを為すことが肝心です。その初めの時が何時であろうと、そこが吉日です。今年何を出来たのか反省しつつ、鐘の音を聞きたいと思います。

平成二十五年十一月

第四十六号

開山毎歳忌香語

数多名水聞扶桑
那賀渓流堪眺望
弘済法泉存此地
祖恩滴滴幾星霜

数多の名水 扶桑に聞こえる
那賀の渓流 眺望に堪えたり
弘済の法泉 此の地に存す
祖恩滴滴 幾星霜

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」伝統を維持することは大変なことです。周囲の環境の変化の中で、どう護持していくのか。偉大な先人の方々と全く同じ事はできません。今、自分ができることを自分なりにすることしかできないのです。その時その時の一所懸命の積み重ねの上に私たちは生きています。
今年も無事に開山忌を厳修できることを感謝いたします。

平成二十五年十月

第四十五号

月在中秋處處明
清風颯颯帯蟲聲
黄金稲穂無量恵
普遍十方恩愛情

月中秋に在って処処明なり
清風颯颯 虫声を帯びる
黄金の稲穂 無量の恵
十方に普遍す 恩愛の情

月を愛で、秋風を感じ、豊作に感謝する。日本人が大昔から毎年毎年、大切にしてきた文化であり、感動だと思います。現代において、何かと世の中は騒々しいですが、身近にごくごく当たり前の幸せが転がっている気がします。

先日、子供の運動会にて一生懸命走っている顔、緊張しながら鼓笛隊の演奏している姿を見て、嬉しく思いました。かつては私も子供の時代があり、見守ってくれる人がいました。繰り返されるこの世代の繋がりを感じられることに感謝します。

平成二十五年七月

第四十四号

開祖一山禅窟雄
光陰如矢往時同
臨機応変透過去
正是隨縁大道通

開祖一山 禅窟の雄なり
光陰矢の如し 往時同じなり
臨機応変 透過して去る
正に是 縁に随い 大道通ず

一山国師が帰一寺を開山してから七百年以上経ち、私で三十一代目を数えます。これまでの帰一寺の歴史の中で様々な変遷があったことと思います。時代の変化とともに変えるべきは変え、残すべきは残して今日に至っているのだと思います。

この度、長年の懸案でありました境内への車道の造成が成りましたことは当山に於いて大きな変化だと思います。歴史の重みと今後の帰一寺の行方とを慮りながら時宜にかなった護持運営を心掛けて行きたいと思います。

平成二十五年五月

第四十三号

緑樹青峰色更鮮
薫風吹渡去飄然
藤花映映現吉祥
人語鳥聲堂裏禅

緑樹青峰 色更に鮮やかなり
薫風吹き渡り 飄然と去る
藤花映映 吉祥を現じ
人語鳥聲 堂裏の禅

何年か前に裏庭の伐採にともない、藤の花が咲かなくなりまして、枯れたものと思っておりました。ところが今年見事に復活して綺麗な花を咲かせてくれました。
人生山あり谷ありではございますが、倦まず弛まず黙々と行を積んでいくことで花がひらくものです。何時ひらくかわかりませんが、あきらめない事が肝要です。
「大死一番絶後に蘇る」「火事場の糞力」「背水の陣」いずれにしろ前提にあるのは日々の努力と思います。神頼み、仏頼みをする前に日頃の心の在り様は如何でしょうか。

平成二十五年一月

第四十二号

年去年来開法門
寒梅一點古禅園
大蛇鎮座常如在
有縁無縁総併呑

年去り年来たりて 法門開く
寒梅一点 古禅園
大蛇鎮座し 常に在るが如し
有縁無縁 総て併呑す

新年あけましておめでとうございます。暦は変わりましたが、かつての東日本大震災の記憶や、難事に対峙している外交、依然とした景気停滞、相変わらず日々の生活から漠然とした不安や恐怖は新しく変わったとは言えません。蛇は獲物を丸呑みにして、そのまま消化吸収します。私達の幸福や希望、世の中の不安や恐れ、諸々総てを丸呑みにして、今年一年が穏やかで平和な一年であることを願うばかりです。人事を尽くして天命を待つ。大蛇の到来を願うか、自ら大蛇になるのか、己を見つめる年でしょうか。

平成二十四年十二月

第四十一号

開山毎歳忌香語

七百星霜非往年
元朝寇難劫人天
一山国使豆州在
脈脈法燈今尚鮮

七百の星霜 往年に非ず
元朝の寇難 人天を劫かす
一山国に使いし 豆州に在り
脈脈たる法燈 今尚鮮やかなり

帰一寺の開山の一山国師は元の時代に使者として日本にきた中国の高僧です。使者できたものの囚われの身となり、やがては日本の地で子弟達を育てました。
その徳がいまでも各地で残っています。現在中国を日本の外交状況は良好なものとは言えませんが、お互いの国としての誇りを損なうことなく、平和に収まればなと思います。もうじき総選挙ですが、真に国を託すに足る人を選ぶ時が来たと思います。七百年前に来日した国師の毎歳忌に際して、そんなことを考えました。

平成二十四年九月

第四十号

炎威烈烈白雲鮮
一陣涼風到眼前
響響蝉吟諸聖衆
無心夢想徳無辺

炎威烈烈 白雲鮮やかなり
一陣の涼風 眼前に到る
響響たる蝉吟 諸聖衆
無心夢想 徳無辺なり

先日機会がありまして、箱根の大徳寺派早雲寺様を参拝させていただきました。
その境内にはヒメハルセミという珍しい蝉が生息しているそうです。一匹が鳴き出すと、それに合わせて他の蝉も鳴き出し、山内に響き渡るのだそうです。その姿から勤行蝉とも言われるそうです。最初の一匹が誰になるのか、また誰と一緒に合わせていくのか。蝉は何を想って鳴いているのでしょうか。大勢の中の自分ですが、自分はたった一人の尊い自分です。
短い人生をどう生きるか、自分次第ですね。

平成二十四年四月

第三十九号

先住一溪通和尚七回忌香語

溪上桜花憶昔年
青青若葉法山鮮
玄通和尚七回忌
恭献浄香謝祖縁

溪上の桜花 昔年を憶う
青青たる若葉 法山鮮やかなり
玄通和尚 七回忌
恭しく浄香を献じ 祖縁を謝す

四月十四日に先住職様の七回忌の法要を執り行いました。那賀川の桜並木がちょうど葉桜になるくらい時期です。私は直接お会いしたことはありませんが、五十年近く住職として帰一寺を護持されてきたことは、まことに大変な事であったと思います。

どの世界でも世代交代というものはございます。どのように引き継ぎ、受け継がれていくか多様のことと思います。法要とは、ご先祖様を思い、また今の自分の在り様を見つめ直すいい機会なのかもしれません。

平成二十四年二月

第三十八号

微雨新晴轉蕭然
一枝梅影放光鮮
千愁萬念無常感
拈作片香離是縁

微雨新たに晴れ 轉た蕭然
一枝の梅影 光放って鮮やかなり
千愁萬念 無常の感
拈じて片香と作し 是縁を離るる

先日、4歳の娘から手紙をもらいました。「らいすき」と書いてありました。一瞬はてなと思いつつも、これは禅問答の一種かと考えたあげく「だいすき」に違いないとの結論に至りました。覚えたての知識を振り絞って書かれたその紙切れは私の宝物となりましたが、その日以来、数を増して引き出しを圧迫しつつあります。

今年も二月十一日にお人形さんの供養をさせて頂きました。お経を上げながらふと娘の手紙が脳裏をかすめました。

平成二十四年一月

第三十七号

天地荘厳龍起雲
改年吉慶誦経文
寒梅一点到佳境
古刹堂中満院薫

天地荘厳 龍雲を起こし
改年の吉慶 経文を誦す
寒梅一点 佳境に到り
古刹堂中 満院薫る

旧年中はお世話になりました。今年も宜しくお願い致します。
十人十色、人それぞれの人生、性格がございます。今年の一年をどう過ごすのかもその人次第です。龍の如く飛躍の年にしたと願うのもまた一例でしょう。
四年程の歳月を経てまた新たな年を迎えるにあたり、私は今年を雌伏の年にしようかなと考えております。龍というより蜥蜴ではございますが、さらなる挑戦にむけて力を蓄えようと考えております

平成二十三年十月

第三十六号

天高雲静仰慈光
颯颯涼風遍十方
法鼓震揺威凛凛
慇懃問訊報恩香

天高く雲静か 慈光を仰ぐ
颯颯たる涼風 十方に遍し
法鼓震揺す 威凛凛たり
慇懃に問訊 報恩の香

去る十月八日に晋山式を厳修いたしました。建長寺管長猊下をはじめ宗務総長様、所縁の和尚様方、檀家の皆様、関係各位のご列席のもと無事に、終えることができました。これも、ひとえに皆様方のご協力の賜物でございます。ここに深く感謝を表すとともに、今後更なる精進をしてまいりたいと思います。
一山越えると次の山が見えてきます。一歩一歩少しづつでも、時には休みながら前に進んで行きたいものです。

平成二十三年八月

第三十五号

晋山式之偈

萬法山頭旭日昇
千人帰一慶祥興
今朝住持斯名刹
刻苦専心護祖燈

萬法山頭 旭日昇り
千人帰一 祥興を慶ぶ
今朝住持す 斯の名刹
刻苦専心 祖燈を護らん

月日の経つのは早いもので、あっという間に三年が過ぎ、とうとう晋山式まで一カ月と相成りました。様々な方々に支えられ、助けられ準備して参りました。
帰一寺にとって檀家さんはいわば家族でございます。家族それぞれがあってこその帰一寺であり、これからも共に栄えていけるように心から祈念いたします。
家族の在り方が大きく変化しました現在だからこそ、今一度ご先祖様や一族親族との関わりを見つめ直すいい時かも知れません。

平成二十三年七月

第三十四号

晋山式山門之偈

蓋天蓋地
唯我独尊
未動一歩
透過山門

蓋天蓋地
唯我独尊
未だ一歩を動ぜざるに
山門を透過す

いよいよ晋山式の日も迫ってまいりまして、残すところ三ケ月程となりました。
思えば、住職として赴任して以来三年近く経つわけですが、自らの意思と、周りの状況との折り合いがつかない事はままあります。時節因縁を知り、機を伺いながらも不断の努力を怠らない事が大事な事と存じます。いつか訪れる人生の終わりに向けて日々の研鑽、生き方が大切です。生まれてきて良かった、産んでくれてありがとうと感謝の気持ちを持ちつつ人生を送りたいものです。

平成二十三年六月

第三十三号

六月蒸蒸雨後天
黄梅熟落蔭庭前
一庵一住溪聲近
坐臥経行去幾年

六月蒸蒸 雨後の天
黄梅熟し落ち 庭前を蔭う
一庵一住 溪声近し
坐臥経行 幾年か去る

梅雨の季節になりますと、帰一寺ではいつもに増して湿度が高くなり、より一層住み心地が悪くなります。
人間の思いとは別に梅の実が大きくなり、稲が徐々に成長していく時期でもあります。
物事はいろいろな側面を併せ持っているものです。
また、捉える人の見方によっても変わってきます。
萬法一に帰す。どういう生き方、考え方をしても自分の人生です。
納得の行く人生を送り、生まれてきて良かったなぁと終わりを迎えることができますようにと日々精進する次第です。

平成二十三年五月

第三十二号

新緑蔭深窮奥玄
涼風吹渡轉新鮮
溪聲幽處閑光景
法壽無量妙徳縁

新緑蔭深く 窮まって奥玄なり
涼風吹き渡り 轉た新鮮なり
溪声幽なる処 閑光景
法寿無量 妙徳の縁

先日、帰一寺に私が修業中にお世話になりました、妙心僧堂のお師家さまをはじめとして大勢の和尚様達が御来山下さいました。
誠にありがたい御縁であり、法幸至極なことであり、また恐縮な事でございました。
この計画をたててくれたのは、実はやはり修業中の同期の和尚様でした。
多くの縁に支えられ、一つ一つが繋がっていく様は、不思議なものでございます。
日常において何がどうかかわっていくのかは予測できません。
情けは人の為ならず。日々の生活に於いて忘れないでおきたいものです。

平成二十三年四月

第三十一号

桜花爛漫一天香
風暖鳥啼世相忘
衣服新調提小袋
年年喜見我児長

桜花爛漫 一天香る
風暖鳥啼き 世相を忘ず
衣服新調 小袋を提げ
年年喜び見る 我児の長

我児の長この四月より、長男の道覚が保育園に通い始めました。
時の流れは速いもので、上の娘が通い始めたのが昨日の事のように思われます。
世の中が何かと騒がしく、また暗澹としてる中で、ささやかではありますが、心が和む一時でございました。
一生涯のうち、順風満帆ということはほぼ無いと言っていいかと思います。
良い時もあれば、悪い時もあります。その時その場でいかに生きるか、心持一つで変わってくるのかも知れません。
何の憂いもなく、生きている子供を見ていると、何か元気の素があるように思えます。

平成二十三年三月

第三十号

雨後花開祈福祥
寺庭春色尚難忘
報恩供養菩提道
積善衆徒施食場

雨後花開いて 福祥を祈る
寺庭春色 尚忘れ難し
報恩の供養 菩提の道
積善の衆徒 施食の場

自然の移ろいというものは、時に情緒的であり、時に厳しいものでございます。
どうしようもない、自然の大きな力の前では、私達人間などはちっぽけな存在です。
しかし、そのちっぽけな存在のそれぞれに、生活があり、感動があります。
その機会を繋いできてくださった御先祖様にはやはり感謝しなくてはならないと思います。
今月大きな天災により世の中が一気に変わってしまいました。
地震による被害者の方々には心よりお見舞い申し上げます。

平成二十三年二月

第二十九号

風暖鳥啼春可憐
梅花紅白色嬋娟
光陰流轉皆如夢
好日好時佳節天

風暖かく鳥啼き 春憐れむべし
梅花紅白 色嬋娟たり
光陰流轉 皆夢の如し
好日好時 佳節の天

先日、ある方が人形供養に際しまして人形を持ってこられました。
娘さんがいなかった方で、親戚や友人から娘の代わりにと頂いたものだそうです。
何十年と大切にしていた人形を、老年になり身辺の整理のためにと持ってこられました。
別れに際しての切なさや思い入れが感じられました。
形あるものに心を宿らせ、気持ちを持たせるのは人のなせる業かと思います。
お墓しかり、お守りしかり。
現在、様々な所で理屈ばかりでない心の在り方が失われつつあるように見受けられます。

平成二十三年一月

第二十八号

元日呈祥幸見之
瑞光萬里発心時
應縁隨處山中寺
面目一新永護持

元日祥を呈し 幸いに之を見る
瑞光萬里 発心の時
縁に応じ 処に随う 山中の寺
面目一新 永く護持せん

新年おめでとうございます。
人生において、節目の時と言うものがございます。誕生、入学、成人式、結婚、葬儀…。
一日一日が大切なことは言うまでも有りませんが、その中で特に心に残る日というものもございます。
時代の変化と共に行事や儀式等の在り方や、仕様が変化していきますが、あえて昔ながらのやり方の意味を知ることも大事なことかも知れません。
温故知新、古なくして新しいものはなく、親なくして子はあり得ません。
今年私の晋山式を挙行致しますが、うさぎのように飛躍の年にしたいものです。

平成二十二年十二月

第二七号

子曰、吾十有五而志呼学、
三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩

子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

私が二十七歳で帰一寺の住職になり、今年で三十一歳になりましたが、振り返ってみると果たして真の意味で自立しているのだろうかと慚愧の念に堪えません。
幸いなことに檀家さんや地元の方々に支えられながら何とか住職としての体裁を保てているような気も致しますが、より一層の精進が必要だと思います。
良い年のとり方をされている方は素敵だなと思います。
どう生きて時間は平等に過ぎていきます。
限りある命をどう燃焼させるかは自分次第といったところでしょうか。

平成二十二年十一月

第二六号

金風颯颯晩秋天
野菊幽香祖塔前
今日恭拈功徳聚
報恩一※起祥煙

金風颯颯 晩秋の天
野菊幽香 祖塔の前
今日恭しく拈じ 功徳聚めん
報恩の一※ 祥煙起らん

帰一寺の開山毎歳忌を復活させてから、はやいもので三年目を迎えることとなりました。
誰にも御先祖様はいらっしゃるわけですが、年を経て、代を重ねていきますと、徐々に記憶が薄れてしまうようです。
故郷を離れ、各地で活躍することは大変なことであり、素晴らしいことですが、自分の出自や出身地に誇りを持つことを忘れてはいけないと思います。
先祖様から繋がれてきた命というタスキを託されているという自覚と誇りが、今の自分の生き方を形作っていくのだと思います。

平成二十二年十月

第二五号

桂秋寂寂古庭芳
清爽微涼遍十方
好日好時無事處
年年歳歳仰慈光

桂秋寂寂 古庭芳し
清爽微涼 十方に遍く
好日好時 無事の處
年年歳歳 慈光を仰がん

長い夏も終わり、秋を感じる季節となりました。
帰一寺の庭では金木犀の香りが漂っております。
思えば、去年もやはりこの香りで秋を感じたものでした。
しかし、同じ香りでも去年と今年では趣が異なります。
己が変化することで見方や感じ方が変わります。これを成長というのかも知れません。
「私が変われば世界が変わる」と妙心寺派の標語がありました。
来年の今頃、晋山式を目前に控えた香りはどう感じるのでしょう。
皆様と共に良い成長をしていきたいものです。

平成二十二年九月

第二四号

炎威烈烈逐時増
霹靂一聲雲作層
道業随流不動心
瓢然来去遠方朋

炎威烈烈 時に逐うて増す
霹靂一聲 雲層を作す
道業は流れに随い 心動かず
瓢然として来たり去る遠方の朋

去る八月八日の早朝、一報の電話がありました。
宮城の石巻の檀家さんの訃報でした。
その日、裏庭の池掃除が予定されておりましたが、終わってすぐに宮城に出発いたしました。
帰一寺の檀家さんの中には故郷を離れて、遠方にて粉骨砕身されている方々が多くいます。
先ず第一報をくださり、頼って下さった事に、寺と檀家さんとの心の繋がりを感じました。
距離の問題ではなく、心の拠り所として、お寺として有るべき姿を次世代に繋げていきたいものだと思います。

平成二十二年八月

第二三号

時有微涼野草芳
遊観花火燦生光
去来生滅因縁法
一刻千金不可忘

時に微涼有り 野草芳し
花火を遊観し 光燦生す
去来生滅 因縁の法なり
一刻千金 忘るる可らず

先日、家族で手持ち花火を致しました。
楽しい時間はあっという間に終わり、日常に戻りました。
花火は火の点いている間、光輝き観る者を楽しませてくれます。
そして燃え尽きた後も余韻を残してくれます。
私たちの人生もいつか燃え尽きる時が来ます。
今の一刻一刻を大切に大切にしていただき、その命を輝かせ、生かしきる。
これがこの世に生を受けたことに対する誠意であり、御先祖様への供養だと思います。
光陰矢の如し。どんな時も人生を楽しみたいものです。

平成二十二年七月

第二二号

七月炎炎竹掛衣
蝉聲吟盡幾時歸
断崖巻柏閑眠樂
時節因縁無是非

七月炎炎 竹に衣を掛ける
蝉聲吟じ盡し 幾時か帰らん
断崖の巻柏 閑眠を楽しむ
時節因縁 是非も無し

帰一寺の裏庭にはイワヒバ(イワマツ)が群生しております。
環境が良いのか湿気が多いせいか、夏の暑い日でも乾燥している冬でもほとんど葉が巻くことは有りません。
しかし、去年からの伐採工事によって日光が当たり、風通しが良くなった今年は葉が巻いている時があります。
日照りの時は葉を巻いて乾燥を防ぎ、また雨が降ると蘇る。
常に再起の可能性を信じてゆっくりと少しづつ成長するイワヒバは私達の日常生活に励ましを与えてくれる気がします。

平成二十二年六月

第二一号

梅天為張只随時
山水※※自入池
一瓦力量無避雨
百千結集覆坤維

梅天戸張を為し 只時に随う
山水※※自ずから池に入る
一つ瓦の力量 雨を避くる無し
百千の結集 坤維を覆う

去る四月一九日に建長寺御詠歌移動支部長講習会が帰一寺本堂にて開催され、
百人以上の方々の奉詠を目の当たりにしました。
十人程の練習の時とは違う迫力に圧倒され、感動いたしました。

一人一人の声が重なり一つの大きな力になる。
厳しい環境にさらされている現代において、個人の権利や個性等の主張ばかりでない、大事なことがあるように思います。
和を以って貴しと為す。忤う無きを宗と為す。個性と個性が調和すること、萬法一に帰すでしょうか。

平成二十二年五月

第二〇号

青山隠隠訪残鶯
軒下唯聴雨滴聲
隣舎雛禽何處戯
使天日出共吟行

青山隠隠 残鶯を訪ぬ
軒下唯聴く 雨滴聲
隣舎の雛禽 何處にか戯れん
使し天日出れば 共に吟行せん

鯉のぼりが風になびき、五月人形の雄姿が微笑ましい季節となりました。
娘と息子が騒がしく遊び、戯れている姿は五月蝿くもあり、嬉しくもありです。
幼少期に共に過ごした幼馴染や近所のおばさん達は元気にしていますでしょうか。
郷里を離れ、暫く経ちますがたまには実家を訪れてみようかなと思います。
長期休暇やお盆、正月、何かと理由をつけて戻れる故郷があるということは幸せなことです。
軒下の雨音を聞きながらふと父母のことを思い出しました。

平成二十二年四月

第一九号

五(ご)観(かん)文(もん)

一(ひと)つには功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り彼(か)の来(らい)処(しょ)を量(はか)る
二(ふた)つには己(おのれ)が徳行(とくぎょう)の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応(おう)ず
三(み)つには心(しん)を防(ふせ)ぎ過貪(とがとん)等(とう)を離(はな)るるを宗(しゅう)とす
四(よ)つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為(ため)なり
五(いつ)つには道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為(た)めに応(まさ)に此(こ)の食(じき)を受(う)くべし

五観文は食事の際に読むお経の一つです。
年配の檀家さんの話では戦時中には学校で読んでいたそうです。
食事は生きて行く上で必要不可欠なことです。
また 食事とは他の命を頂いて自分の糧とすることでも有ります。
殺生を避けるために御飯を食べなければ自分自身を殺生してしまうことになります。
魚も牛も米も野菜も皆生きていました。
その命を頂いて自分の命を保っているのです。
食事に限らず、私たちの生活は様々な縁によって支えられ、また犠牲の上に成り立っています。
そのことに感謝しつつ、謙虚にその恩恵に与れることを認識すべきではないでしょうか。

平成二十二年三月

第一八号

題 臨春季彼岸大施餓鬼会

春光爛漫照幽池
柳緑花紅塵外姿
甘露法聲山内響
無量功徳有何疑

春光爛漫 幽池を照らし
柳は緑 花は紅 塵外の姿
甘露の法聲 山内に響き
無量の功徳 何の疑いか有らん

阿難尊者が釈尊より教示された施餓鬼の法が施餓鬼会の始まりと由来と言われています。
不況の嵐が吹き荒ぶ昨今、その日その日に不安を感じ、家族の身を案じるのがやっとのことであり、
他者のことを思いやる余裕など持てそうにありません。
しかし、情けは人の為ならず。他者に施した功徳が巡り巡って己に還ってきます。
慳貪の心にとらわれず、無心でありたいものです。
今の自分の存在を支えて下さる有縁無縁の方々に感謝いたします。

平成二十二年二月

第一七号

題 臨人形供養

日輝出岫半天青
馥郁古梅花満庭
嬉嬉小童微笑面
唯唯祈願子安寧

日輝き岫を出でて 半天青し
馥郁の古梅 花庭に満つる
嬉嬉として小童 微笑みの面
唯唯祈願す子の安寧ならんことを

「子を育てることに法はなし」私の尊敬する和尚様のお言葉です。
マニュアルなんてものはなくて、その時その時、一生懸命やるしかないと諭されました。
風邪をひいたら一生懸命に看病しとし、泣いたら、一生懸命にあやしてあげる。

息子は車に乗ると大泣きします。
しかし、大好きな犬のぬいぐるみを渡すと泣き止みます。
父母にとっては仏様のようなものです。
それぞれの人にそれぞれの思いの込められたお友達との別れに心を込めて今年も二月十一日に供養いたします。

平成二十二年一月

第一六号

旭日瑞光開暦端
白梅微笑賀平安
鼠徒四匹古坊賑
能齧柱梁何処残

旭日瑞光 暦端を開き
白梅微笑て 平安を賀す
鼠徒四匹 古坊を賑わし
齧るに能う柱梁 何処にか残らん

新年おめでとうございます。

盆と正月が一緒に来たようだなんていう言葉があります。
普段離れて住んでいる親族も正月には田舎に帰り、一同仲良く一年の計に思いを馳せることはなんと幸せなことでしょうか。
正月、盆、法事等、新族の絆を確認できる機会を大切にしたいものです。

昨年より帰一寺の寺族が一人増え四人になりました。
騒々しいことと思いますが、共々宜しくお願い致します。
今年の一日一日が良い日でありますようお祈り申し上げます。

一年十二月

第一五号

題 臨餅撞

寒風蕭颯掃中庭
一面水仙芳馥馨
杵臼響音為祝餅
野童嬉楽又清寧

寒風蕭颯 中庭を掃き
一面の水仙 芳馥馨る
杵臼音を響かせ 祝餅を為し
野童嬉楽す 又清寧なり

今月の十二月二十九日に帰一寺で餅撞きを行います。
去年作った臼と杵で搗こうと思っています。
古来よりハレの日には餅を食べるのが稲作農耕の食文化の一つでした。
餅を食べることで神の霊力を体内に迎え、生命の再生と補強を願ったと言います。

これから先も地域の子供達の笑顔とともに暮らしていける松崎であったらいいなと切に願います。

二十九日のフク餅で年を越し、新しい年を福とともに迎えられますことをお祈り申し上げます。

平成二十一年十一月

第一四号

題 臨帰一寺開山忌

瑞雲西来覆乾坤
天宇雷鳴紫気屯
龍駿咆哮齎恵雨
法聲滴滴及兒孫

瑞雲西来 乾坤を覆い
天宇雷鳴 紫気屯す
龍駿咆哮して 恵雨を齎し
法聲滴滴 兒孫に及ばん

今月の十一月二十五日に帰一寺の開山忌があります。
約七百年前にこの船田の地に一山国師が流されて来てから、この寺が創建されました。
当山第三十一世として檀家さん達と共に開山様をお祀りできますことを誇りに思います。
自分の親、師、御先祖様、皆私達の容を作ってくださった方々です。
素直に感謝することが当たり前のことであり、尊いことではないでしょうか。

一年に一度、この日だけ帰一寺の寺宝である一山一寧国師の自画自賛像と自筆の絹本を展示します。

平成二十一年十月

第一三号

題 於妙心寺開山六百五十年遠諱報恩大接心

清澄秋気暁鐘敲
雲衲堂堂集古巣
自顧厚脾無眼子
未能厳守祖師教

清澄たる秋気 暁鐘を敲く
雲衲堂堂として 古巣に集まる
自ら顧るに 厚脾の無眼子
未だ厳守すること能わず祖師の教

九月二五日より三〇日まで、京都の妙心寺にて報恩大接心に参加してきました。
全国の修行道場から何人もの御師家さんと三〇〇人近い雲水達が集まり、切磋琢磨しました。
帰一寺の住職になってから二年経とうとしておりますが、久しぶりに修行時代の緊張感を思い出しました。
「請う、其の本を務めよ」開山無相大師のお言葉です。
今何を為すべきか、自分は何なのか。京都にて改めて自分の至らなさを自覚致しました。

平成二十一年九月

第一二号

題 於建長寺開山忌

炎威烈烈白雲間
殿閣堂堂巨福山
一派法孫斉合掌
祖師恩徳満人寰

炎威烈烈 白雲の間
殿閣堂堂 巨福山
一派の法孫 斉しく合掌す
祖師の恩徳 人寰に満つ

八月二四日に鎌倉の本山建長寺にて開山忌が毎年営まれます。
今年もとても暑い中、大勢の御尊宿方が大覚禅師を偲んで随喜出頭しておりました。
建長寺派の開山忌は出頭率が高いそうです。
それだけ、団結力があるということでしょうか。
帰一寺の開山さんは一山一寧国師で建長寺の第一〇代目の住職でもあります。
一一月二五日に開山忌を営みます。
檀信徒の皆様と共に年々歳々続けていけますよう、
三一代目の帰一寺住職として今後も精進していきたいと思います。

平成二十一年八月

第一一号

題 臨夏祭

夏雲一片在残陽
三伏清風生夕涼
澄心幽聞宵宴賑
我只願五穀豊穣

夏雲一片 残陽に在り
三伏の清風 夕涼を生ず
澄心幽かに聞こえる宵宴の賑わい
我只願うは五穀豊穣ならんことを

八月には各地区で夏祭が行われます。
悪疫退散や平穏な日常、又稲の豊作を願うものなど様々な祭りがあるそうです。
夏祭やお盆を迎える前に各地区にて草刈等をし、準備をします。
先日七月二六日には帰一寺でも奉仕作業が行われ、境内が一新いたしました。
夏の暑い時期に地域の方々と一緒に汗をかくことで、人の和というものを改めて感じました。
孤独死や家庭崩壊など話題になる現在において、コミュニティーの存在は贅沢なことかも知れません。
今年も豊作でありますようお祈り申し上げます。

平成二十一年七月

第一〇号

題 臨盂蘭盆会

雨後青青萬法山
蝉聲響渡檜林間
田中水満涼風爽
今歳盆齋依舊閑

雨後青青たり 萬法山
蝉聲響き渡る 檜林間
田中水満ちて 涼風爽やかなり
今歳の盆齋 舊に依りて閑なり

梅雨の大雨、青々とした山々、響き渡る蝉や蛙の声、ホタルの光、沢の水の音、田んぼの稲等々、
昔からの風物詩が松崎の里に今も残っております。
毎年同じようで、実は去年の景色と今年の景色は違って見えます。
自分がこの一年で変化、成長したことで、感じ方が変わるのです。
祇園精舎の鐘の声云々。行く川の流れは絶えずして云々。
同じ季節、同じ行事も私達が変わる度に変わっていきます。
今年のお盆の行事を今年の自分として迎えたいものです。

平成二十一年六月

第九号

題 初夏偶成

躑躅鮮※鄙裏庭
蜜蜂羽響什麼経
幼童笑戯昔年事
何往遊聲獨坐聴

躑躅鮮※たり 鄙びた裏庭
蜜蜂の羽響く 什麼の経ぞ
幼童の笑い戯れたるは昔年の事
何くにか往く遊ぶ聲獨り坐して聴く

法事の際などに帰一寺を訪れる御年配の方々が、
裏庭を眺めながら懐かしそうに話してくれました。
小さい頃にお寺でよく遊んだこと。
珍しい竹を盗みに来ては住職に怒られたこと。
かつて近所の子供たちにとって帰一寺は身近なものでした。
帰一寺では何百年と檀家さんのご先祖様をお守りしております。
そのご先祖様の近くでそれぞれの血を継いだ子や孫たちが遊びに来てくれることは嬉しかったことでしょう。
それぞれの家庭の延長線上にお墓があり、また帰一寺があるんだと感じました。

平成二十一年五月

第八号

題 忙中閑

藤花麗麗映山門
訝我不知前日存
渡世迷迷忘作主
暫時休憩脱塵煩

藤花麗麗として、山門に映ず
訝し、我前日に存することを知らず
渡世に迷迷として、主と作るを忘ず
暫時休憩、塵煩を脱せん

世の中が目まぐるしく動いて行く中で、私達は日々時間に追われながら生活している気が致します。
ですが、同じ時、同じ時代を生きているにもかかわらず、周囲に振り回されることなく事を成し遂げている素晴らしい方々もいらっしゃいます。
忙中に閑を見つけ、また閑中に忙を見出す。
何時如何なる時でも随処に主となることで限られた時間を大切に生きていきたいものです。
大切な事を気づかせてくれた裏庭の藤の花に感謝いたします。

平成二十一年四月

第七号

世尊初生下、一手指天、一手指地、
七歩周行、目顧四方云、天上天下、唯我独尊。

世尊初生下、一手は天を指し、一手は地を指して、
七歩周行、四方を目顧して云く、天上天下、唯我独尊。

二月に人形供養の際に縁のありました方から、「子安さん」と呼ばれる仏像をお預かりしました。
その地域で、妊婦さんになると、お産の無事を祈って、その妊婦さんが子安さんをお護りしたそうです。
そして、また次の妊婦さんへと受け継がれてきたものだそうです。
お産は医学の発達した今でも母子ともに危険の伴う一大イベントです。
その心の支えとして敬われてきた子安さんを当山でお護りさせて頂くことになりました縁に感謝いたします。
四月八日はお釈迦様の生まれた日ですが、この世にいる人は皆お母さんのお腹から生まれてきた尊い子供です。
折角頂いた命、大切にしたいものです。

平成二十一年三月

第六号

道覚誕生

心逸車中寒夜閑
産声響渡暫時間
忽然自覚両親想
只管愛哉吾子顔

心逸る車中、寒夜の閑
産声響き渡る、暫時の間
忽然として自覚す、両親の想い
只管、愛しい哉、吾子の顔

今年一月二一日に長男の道覚が誕生いたしました。
道覚の顔を見たとき、ただ無事に生まれてきたことを嬉しく思いました。
自分の血を継いでいる赤ちゃんが目の前で声をあげている姿にただただ感動しておりました。
私が生まれた時、おそらく親父は同じように喜んでくれたでしょう。
そしてお爺さんも。命を脈々とつないできて下さったご先祖様がいて今の自分があります。
お彼岸には私達のご先祖様に感謝の気持ちで手を合わせたいものです。

平成二十一年二月

第五号

臨如月人形供養

諸行無常世理哉
別離会遇歳月回
人形運命亦如此
今際訣辞供白梅

諸行無常は世の理哉
別離会遇、歳月回る
人形の運命、亦此の如し
今、訣辞に際し、白梅を供えん

帰一寺の本堂には観世音菩薩が本尊として安置されております。
木で造られた像に対して、私達を救い、私達の願いを叶えてくださると信じ、お参りしております。
お人形さんもまた然り。一緒に笑い、一緒に泣き、楽しい時も辛い時も連れ添った友達です。
それぞれの思い出や気持がたくさん詰まっているのです。
今月十一日に人形供養の法要を厳修させて頂きます。
大切な友達だから、大事にしたいお別れのときもまた心を込めて。

平成二十一年一月

第四号

迎春吉慶入山門
帰一禅堂大道存
日日善行牛歩進
金剛願力動乾坤

新春の吉慶、山門より入る
帰一禅堂、大道存す
日日の善行、牛歩の進みなれど
金剛の願力、乾坤を動かす

新年おめでとうございます。
帰一寺の山門には趣のある参道がございます。
この参道を通って大きな幸福がやってきます。
それが、檀信徒の方々であり、皆様一人一人でございます。
今年は帰一寺参道の工事に向かって邁進していこうとしております。
その進みは少しづつ、遅々としていようとも、皆様と力を原動力として確実にかつ力強く発展させていきたいと願っております。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

平成二十年十二月

第三号

雲門垂語云、十五日已前不問汝 十五日已後道将一句來 自代云、日日是好日。

雲門垂語して云はく、十五日已前は汝に問はず。
十五日已後、一句を道将し来たれ。自ら代わって云はく、日日是好日。

碧厳録第六則雲門好日の一節です。師走の字の如く年の瀬が迫り何かと慌ただしい月となりました。
除夜の鐘とともに今年度の終わりを知り、新しい気持ちで新年を迎える時期だからこそ、心に留めて置きたい言葉です。

十五日前の自分も十五日後の自分も自分であることに変わりはありません。
過去を振り返るでもなく、未来を望むのでなく、只今現在、生きている自分が自分でしかないのです。
「晴れてよし曇りてもよし富士の山。もとの姿はかはらざりけり」

一度しかない一日、一瞬を大切にしたいものです。

平成二十年十一月

第二号

僧問趙州萬法歸一。一歸何處。州云、我在靑州作一領布衫重七斤。

僧、趙州に問ふ。萬法一に歸す。一、何れの處にか歸す。州云はく、我れ靑州に在って一領の布衫を作る。重きこと七斤。

碧厳録第四十五則趙州布衫の一節です。「萬法」すなわちすべてのものは、「一に歸す」一つのものである。
地球上のすべての物体は皆地球そのものじゃないか。太郎さんも次郎さんも皆同じ人間じゃないか。
また、同じ人間の中に男あり、女あり、子供あり、お年寄りあり、お金持ちあり、貧乏人あり。違うことと同じことは表裏一体です。
各人の個性は違えども、同じ命を持った尊い人間です。争ったり、憎しみ合ったりする前に一呼吸おきたいものです。

当山は萬法山帰一寺と申します。一山一寧国師がこの山号、寺名を付けたのには何の意図があったのでしょう。

平成二十年十月

第一号

寧一山師天下鵬
本朝禅海大隆興
年年歳歳猶未朽
今拜真前點法燈

寧一山師は天下の鵬なり
本朝の禅海、大いに隆興す
年年歳歳、猶ほ未だ朽ちることなし
今、真前に拜し、法燈を點ず

この漢詩は今年の開山忌の際に読み上げる偈頌です。
寧一山師とは帰一寺の開山で中国からの渡来僧で、妙慈弘済大師、一山国師と呼ばれ建長寺の第十世住持を務めた高僧です。
日本の禅宗に大きな影響を及ぼし、多くの子弟を育てました。その一派は一山派と呼ばれ五山文学や朱子学に貢献致しました。

来月、十一月二十四日に遷化後六百九十一年目の法要を営みます。
今なお続く帰一寺の法燈を大切に護り、様々な縁でつながる皆様とともに歩みたいものです。

facebookで帰一寺をフォローしませんか